CLEO ORIGIN STORY — 1973–PRESENT



1973新宿歩行者天国、野外劇『イリュミナシヨン』——のちのCLEOの、最初の記録。

01 — 1973–1993

劇団今井英臣事務所

1973年8月、新宿の歩行者天国。まだ「CLEO」という名前はどこにもなかった。演出家・今井英臣と仲間たちが、野外劇『イリュミナシヨン』を打つ。当時の東京には、状況劇場、演劇センター68/71、天井桟敷——時代の熱気そのものだったアングラ演劇の劇団がひしめいていた。今井英臣もまた、その渦の中にいた一人だった。

六本木の自由劇場、多摩川の河原、赤坂の芸術家センター。舞台は劇場の中だけにはなかった。今井英臣は「劇団今井英臣事務所」として、見つけた場所そのものを舞台に変えながら、公演を重ねていく。

1973
『イリュミナシヨン』新宿歩行者天国(野外劇)
1974
『春風騒乱顛末記』六本木自由劇場
1974
『唄入り乱極道』登戸・多摩川河原野外劇
1976
『激死』(作:伊勢寓人)赤坂国際芸術家センター

多摩川河原の野外劇『唄入り乱極道』。そのポスターの題字は、今井英臣と縁のあった俳優・三國連太郎が自ら手がけたものだったと伝えられている。今井英臣は文学座出身で三國の付け人を務めた時期があり、後年みずから開いた俳優養成所「今井英臣俳優道場」でも、三國連太郎が顧問として名を連ねた。

出典:早稲田大学文化資源データベース「演劇上演記録データベース」ほか、当時の関係者による記録
早稲田大学文化資源データベース「演劇上演記録データベース」、アクターズ・オフィスの検索結果画面
「アクターズ・オフィス」名義の上演は、早稲田大学演劇博物館のデータベースに5件記録されている(1998〜2003年)。
早稲田大学文化資源データベース、劇団今井英臣事務所『激死』1976年の記録画面
1976年、劇団今井英臣事務所『激死』の上演記録。演出欄に「今井英臣」の名が残る。

今井英臣は演出家であると同時に、俳優を育てる人でもあった。舞台を打ちながら、次の書き手や演じ手を育てる——このふたつが同時に走っている感覚。それこそが、のちのCLEOに流れ続けることになる原型だった。

今井英臣俳優道場、出演研究生募集の雑誌広告。顧問:三国連太郎
今井英臣が自ら開いた俳優養成所「今井英臣俳優道場」の研究生募集広告。顧問には三国連太郎の名がある。「徹底した個人指導を」——このスタンスは、いまの俳優専科にもそのまま息づいている。

02 — 1994–2008

託されたもの

1994年、東京・中目黒。今井英臣は「アクターズ・オフィス」を立ち上げる。路上や河原で芝居を打ってきた劇団を、俳優を預かり育てる事務所というかたちに結晶させた瞬間だった。翌1995年7月3日、有限会社ザ・アクターズ・オフィスとして法人登記される。

しかし、ほどなくして今井英臣は世を去る。1998年9月、追悼公演『青空のメロディー』でアクターズ・オフィスは再び幕を開けた。事務所を継いだのは、妻であった今井法子(乃梨子)。夫が遺した劇団を、彼女はただ守るのではなく、育てていく。

1998
『青空のメロディー』(今井英臣追悼公演)ザ・ポケット
1999
『エロスとパトスのサドンデス』(作・演出:花堂純次)中野ザ・ポケット/アクターズ・オフィス第7回公演
2000
『お葉 晴雨と夢二に愛された女』アクターズ・オフィス公演
2001
『Cold Angel, Sweet Devil〜人の歴史は誰のもの〜』アクターズ・オフィス公演
2003
『女と男-デスマッチ』アクターズ・オフィス公演
1999年『エロスとパトスのサドンデス』公演チラシ、アクターズ・オフィス第7回公演、作・演出:花堂純次
1999年、アクターズ・オフィス第7回公演『エロスとパトスのサドンデス』のチラシ実物。作・演出は花堂純次、企画制作は今井乃梨子・相馬誠。

オリジナル公演を重ねるたび、スタッフロールに次の世代の名前が増えていった。1999年の『エロスとパトスのサドンデス』で作・演出を務めた花堂純次も、その一人。舞台という現場を通じて、CLEOと花堂純次の関係は、すでにこの頃から始まっていた。

2008年7月8日、有限会社ザ・アクターズ・オフィスは商号を変え、株式会社CLEOとして生まれ変わる。

系譜図

ひとつの劇団から、ふたつの部門へ

今井英臣が興した劇団は、今井法子(乃梨子)に託され、株式会社CLEOという法人になった。そこから枝分かれした「俳優を育てる部門」と「監督を育てる部門」が、いまのCLEOのふたつの柱になっている。

2008年当時、株式会社CLEOとして生まれ変わった直後のウェブサイトのスクリーンショット
2008年、株式会社CLEOとして生まれ変わった当時のウェブサイト。いまも変わらないあの星形のロゴが、すでにここにある。
劇団を、俳優を育てる場へ今井法子(乃梨子)が継承商号変更・2008年今井英臣演出家・劇団主宰/劇団今井英臣事務所 1973〜アクターズ・オフィス1994年設立/1995年7月3日 法人登記株式会社CLEO2008年7月8日 商号変更・設立アクターズオフィス俳優部/俳優マネジメント今井英臣の劇団名を継ぐディレクターズクラブクリエイター部/監督コーディネート2005年10月発足現在花堂純次・俳優専科/プロボイスラボCLEO studio 運営

03 — 2003–2009

もうひとつの柱

同じ頃、CLEOはもうひとつの物語を歩み始めていた。2003年、まだ無名だった若手監督・荻上直子(のちの『かもめ食堂』『めがね』)への支援をきっかけに、CLEOは映像の作り手たちと関わり始める。2005年10月、若手監督とクリエイターの集団「ディレクターズクラブ」が発足。2006年、花堂純次が中原俊とともにアドバイザーに就任した。

2003

若手監督支援のはじまり

荻上直子監督(南カリフォルニア州立大学留学から帰国)を、コーディネートというかたちで支援。翌年、本田隆一監督への支援も始まる。

2005

「ディレクターズクラブ」発足

10月、若手監督・アーティストとの「クリエイティブ集団ディレクターズクラブ」を発足。乃木坂「コレド」でのフィルムフェスティバルで16名の作品を上映。

2006

花堂純次、アドバイザーに

中原俊監督とともにアドバイザーへ就任。若手監督のインディーズ作品・映画祭出品への協力を本格的に開始。

2008–09

相次ぐグランプリ受賞

参加監督の作品が国内外の映画祭で高い評価を受ける。市井昌秀監督『無防備』はぴあフィルムフェスティバルと釜山国際映画祭、二つのグランプリを持ち帰った。

俳優部

アクターズオフィス

俳優のマネジメントとコーディネート。今井英臣が興した劇団を、そのまま名前に引き継ぐ部門。

クリエイター部

ディレクターズクラブ

監督・撮影・制作をコーディネート。2005年、若手監督たちとの出会いから生まれた、映像制作の部門。

いまも、変わらないこと

2016年、今井英充が取締役に就任。花堂純次は2020年より関わり、現在は外部顧問として舞台と俳優専科を見守っている。舞台の上で人を育てるという最初の衝動は、いまも変わらない。花堂純次が手がける「プロボイスラボ」は、声の表現を教える場として、今井英臣が始めた俳優道場の遠い続きのようにも見える。目黒のCLEO studioでは、かつて舞台がそうだったように、いまも日々ワークショップの声が響いている。

50年前、路上に張られた一枚の幕から。CLEOはいまも、人が人前で表現するその瞬間に、寄り添い続けている。

商号
株式会社CLEO
前身
有限会社ザ・アクターズ・オフィス
アクターズ・オフィス設立
1994年(法人登記 1995年7月3日)
商号変更・CLEO設立
2008年7月8日
ディレクターズクラブ発足
2005年10月
代表者
今井法子(乃梨子)

本ページは、法務局発行の登記簿謄本、CLEO会社案内、アクターズ・オフィス公演チラシ、早稲田大学演劇博物館「演劇上演記録データベース」、関係者による記録テキストなど、社内外に残る一次資料をもとに構成しています。